KELTY

KELTY

KELTYの歴史は、
そのままバックパックの変遷と言える。

大型であれ小型であれ現在のバックパックの機構には、ウエストベルトが装備され、背部をテンションさせるなど幾つかの共通点がある。
この基本概念は、50年以上前、ディック・ケルティの「発明」によって登場した。

写真)ケルティ

KELTYブランドは1952年、
南カリフォルニアのディック・ケルティの自宅で、
500ドルの借金と共にスタートした。

ケルティはガレージで、溶接機を片手にアルミフレームと格闘し、妻のニーナは台所でミシンをかけ続けていた。自身が熱狂的なアウトドアマンであるケルティは、自分が納得できない製品に妥協することなく、作っては改良を加える日々が流れた。やっと年末に完成したのが29個。世界で初めてのバックパックの誕生だった。その利益は、わずか678ドル。そして53年に90個、54年は220個を販売した。ビジネスとして軌道に乗ったとは言い難い日々が流れた。

しかし転機はまもなく訪れた。カリフォルニアだけの市場に限界を感じたケルティは、通信販売のカタログに掲載する事にした。この戦略は彼に大きな幸福をもたらすことになった。

カタログに発見した前代未聞のモノ、アルミ製フレーム+分割されたナイロンのコンパートメントに、東海岸を中心に全米の若者達の目が惹かれた。ここからバックパッカーという新たな文化が誕生し、KELTYのロゴを背負うことがステータスとなっていくのだった。

ケルティの革新精神はその後も尽きることなく、次々と新しいアイデアを投入しては製品を発表していった。時を置かず、その完成度と機能性の高さは、プロのクライマー達の注目を集め始めた。1963年のF.UnsoeldとF.Hornbeinによるエベレストへの初登頂、1966年ナショナル・ジオグラフィック南極大陸遠征、1975年K2、1982年Cholatseへの初登頂、そして1983年7大陸最高峰遠征...米国の歴史的偉業の多くはKELTYと共に達成されてきた。

写真)店舗、バックパック

このトップクライマー達の偉業と時を同じくして、
米国の若者文化には大きなムーブメントがおきつつあった。

ベトナム戦争によって混沌とした1969年、ニューヨーク州サリバンの農場で行われた伝説のロックコンサート、ウッドストック。

3日間に40万人以上の若者達が野外生活をし、ここから自由と平和をテーマにした世界的なカルチャーとしてキャンピング、バックパッキングなど現代のアウトドアスポーツ文化へと繋がって行った。

1970年、メキシコ国境からカナダ国境までのアメリカ西海岸を南北に縦走する4,240Kmの米国の長距離自然歩道、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)を1シーズン以内に全行程を歩ききるスルーハイキングの最初の成功者、Eric Ryback(当時18才)のバックパックもKELTYだった。

写真)Eric Ryback、PCTで使用していたバックパック

日本でも1976年、
山と渓谷社から今までの山岳雑誌とはまったく違う
「OUTDOOR SPORTS」が創刊された。

この「OUTDOOR SPORTS創刊号」では当時のKELTY社を訪れ、バックパックカルチャーの発祥元とも言えるディック・ケルティ本人を取材して貴重な写真と記事が6ページに渡り掲載されている。

その中にPCTスルーハイキングのEric Rybackやエベレスト初登頂のF.Hornbeinの使用したKELTYパックが写し出されている。

また、その記事の中でアウトドアーズマンであり、ヨットマンで、サイクリストでもあるディック・ケルティは「バックパッキングはエキサイティングで感動的だ」と言い、世界中を旅して得た豊かな知識が集約されているKELTYパックがアメリカのスタンダードなパックフレームであると伝えている。

OUTODOOR SPORTS創刊号 写真1
OUTODOOR SPORTS創刊号 写真2 OUTODOOR SPORTS創刊号 写真3 OUTODOOR SPORTS創刊号 写真4 OUTODOOR SPORTS創刊号 写真5 OUTODOOR SPORTS創刊号 写真6

まさにアウトドア・スポーツという登山とは異なる新しい概念が日本に伝わるきっかけとなったKELTYこそ、現代のOUTDODRカルチャーにとって最もエポックメイキングなブランドといえる。

このようにして総合アウトドアメーカーとして巨大企業となった現在も、ファミリー層からトップクライマーまでに絶対的な信頼を受け続けるKELTYを支える理念と誇りは、ディック・ケルティの遺志と共に生き続けている。